死ぬ気になれば…そこから逃げることもできる

「死ぬ気になれば何でもできる」というフレーズに、いつからか小さな違和感をおぼえてる。

大体このフレーズが使われるのは、しんどくてしんどくて、もう無理だーと思うときに“他者から”じゃない?

死ぬ気になれば何でもできるんだから…どんなにツラくて無理でも頑張れよ、みたいな言われ方をすることが、多い(ような気がする)。

けどねえ〜、死ぬ気になってまでやることなのかな?と、考える余裕が無い状況で「死ぬ気になれば…」とさらに追い込むのってどうなんだろうねえ。

今の時代、体が丈夫でも心が壊れてしまうのは良くないと、ちゃんと浸透してきているし、理解されてきているし、当たり前になるべきだと思うから。

むしろこの言葉は、自分の心身を護るために、大切な人を壊してしまわないために。

「死ぬ気になれば何でもできる。」

学校だって死ぬよりは行かないで良いし、会社だって死ぬよりは休んだって辞めたって良いし、家庭だって死ぬよりは離れてしまって良いし。

死ぬ気になれば、自分の心身を護るために、そこから逃げることもできる。

という意味で、このフレーズを使えるようになれると、良いねえ。

とあるパイオニアの話

かつて、IT系企業で広報マンをしていたころ。

ウチが最初につくり出したモノが、他社にマネられて、しかもそちらの方が売れている。

そんな実状に意気消沈していた僕らに、当時の社長が言ってくれました。

「無いモノをつくり出すより、有るモノをイジる方がカンタンに決まってる。
 だから1番より、2番・3番…の方がウマくデキるのが当然なんだ。
 だから僕らは、最初につくり出したことを誇るべきだし、マネたくなる良いモノをつくり出した証明をしてもらえたと思おう。」

誰かが拓いた道を歩くのは、安全で確実にカンタンな方法。
だから自分が「道を歩く者」の時は、道の選び方を丁寧にする。

自分が道を拓いていく時は、とても厳しくムズカシく思う。
けれど誰かが、いずれその道を歩く時こそ、自分が拓いた道が報われること。

開拓者、革新者、先駆者であるなら追われる者であれ。

…そんなことを、最近ふと、思い返して感じます。