物心ついた頃にはもう、自分の視力が周りの人よりだいぶ弱い、ということを認識していた。
僕が生まれたのは昭和58年。
「テレビを見てると目が悪くなる」と強く言われていた時代。
テレビが大好きだった僕は、夢中になるあまり本当に“くっつくほど”画面に近づいてテレビを見ていた。
「離れて見なさい」とは言われていたけれど、僕にはもう「離れたら見えないじゃん」ということは理解できていた。
また、アルビノ、弱視なんて言葉は知らなくても、自分の目はメガネをしても周りの人と同じように見えるようにはならないんだ、とも、漠然とわかっていた。
これは、親が眼科やメガネ屋さんに僕を幾度となく連れていき、そして難しそうな顔をして帰ってくる姿から、充分に知ることが出来た。
実際、僕自身も、検査の段階で本当に見えないから「見えない」と繰り返し口にしていて、目の前の大人が困った顔をしていることからも「ああ、僕の目は困るんだな」と、漠然と把握していった。
僕の実家は親戚がたくさん遊びに来てくれる、なかなか賑やかな家だったのだけれど。
幼い頃は、何して遊べば良いのか、とても試行錯誤していた。
家の前の駐車場で、親戚たちが おにごっこ や かくれんぼ をして遊んでいた頃。
僕はたいてい「ミソ」で(こんな言い方は時代と地域で限定されるんだろうけど)、仲間に入らなかった。
入れてもらえなかった、というわけではないと思う。
「コウジは苦手だから、やらなくて良いんだよ。」
そんな意味合いの言葉を、兄たちや親戚たちが笑顔で僕にくれたことを覚えてる。
視力がとても弱いから、かくれんぼみたいに“見る力”を要する遊びが、確かに苦手だった。
僕が隠れるならまだしも(真っ白だから見つかりやすいんだけれど)、鬼になって探しに行くと、恐らく普通の人には見えるだろうモノが見えないから、ゲームが止まる。
僕も嫌になるし、かくれんぼは周りのみんなとの能力差がありすぎて、みんなも楽しめないんじゃないかと思い始め、次第に「かくれんぼなら、僕はおウチで別のことして遊んでる」と、仲間に入らなくなっていった。
兄たちも、親戚たちも、なかなか理解しにくい“弱視”という僕を、よく理解してくれていたなあ、と今思う。
とても良い意味で「コウジは違うから」と、受け入れてくれた上で僕の意思を尊重してくれていた気がする。
この弱視というものはなかなか、普通の人には理解し難いもので。
自分が見えるまで顔を(目を)近づけて、見えるものは見える。それでも見えないものは見えない。
本やテレビに、近づくことが出来るから見える。けれど数メートル先の標識や看板の文字は、その距離では見えない。
そんな“見える時は見える”という曖昧な感覚が、普通の人に伝えるのは難しい。
その得意・苦手という感覚での判断がわりと強くて。
僕が苦手なことは、一緒に遊んでくれるみんなをつまらなくさせることもある、と思い至ったので。
苦手なことは遠慮する、というような振る舞いが身についたのかも知れない。
やりたいか、やりたくないか、ではなくて。
出来るか、出来ないか、そしてそこに自分が入ることで、周りの(出来ることが)普通の人にどういう影響を及ぼすか。
その方向へのアンテナ、推測能力は、かなり磨きながら子供時代を過ごした。
そんな僕が小学生の頃。
ファミリーコンピュータ(発売は僕が生まれた1983年)の次世代機、スーパーファミコンが世に出た。
テレビゲームはとても大好きで、大流行してくれたおかげもあって、友達とゲームばかりして遊んでいた頃もあった。
めっちゃテレビに近い、一番前が僕の居場所になっていった。
僕の意思表現は、そうして、少しずつ。
(弱視で一緒に楽しめないから)かくれんぼキライ。やりたくない。
(日焼け対策がとても面倒だから)海はキライ。行きたくない。
そんな風に、形成されていった。
「コウジがキライなら仕方ないね。」
そんな風に、周りのみんなが、理解してくれやすいように。
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