とあるアルビノ・エンターテイナーの生い立ち[幼少~学生時代]

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(この記事は、 粕谷幸司|note に投稿した過去の記事を移植・加筆修正したものです。)

1983年(昭和58年)8月2日、埼玉県所沢市に生まれました。
もちろんその時の記憶はありませんが、祖父も祖母も、父も母も、2人の兄も親戚たちもみんな“普通の日本人”の家庭に生まれた、髪の毛も肌も真っ白いアルビノの赤ちゃんに、さぞ驚いたことでしょう。

人によっては信じられないかもしれないですが、Yahoo!もGoogleも、個人用の携帯電話さえも存在すらしていなかった当時。
人のつてを頼り情報を探し、偶然近所だった防衛医大病院などいくつかの病院をまわり、なんとか「白子症」や「白皮症」のような病名を突き止めた母は、僕を兄たちと同じ地元の幼稚園に通わせました。

その頃の記憶もほぼ無いですが、外遊びの時間でも主に日陰で、ブロック遊びなんかをしていたと思います。
近所の友だちとも、よく遊んでいました。とはいっても、サッカーや野球で真っ黒になるまで走り回るわけにはいかず、もっぱら「おうちで遊ぼう~」と、それぞれの家を行き来する感じで。
ウルトラマンや仮面ライダーのソフビ人形や、戦隊ヒーローの変形ロボのおもちゃで、ごっこ遊びのようなことをするのが好きだった気がします。

任天堂の初代ファミコン(1983年 発売)が流行してくれていたおかげで、友だちにも家遊びが好きな子がたくさんいてくれたのは、今思うと恵まれていました。
とはいえ、今ほど各家庭に大画面テレビが当たり前にある時代ではなく、弱視な僕は画面に近づかないとよく見えませんでした。その結果、画面の真正面に僕がいると…「(僕の)頭が邪魔で画面が見えない!」と不評だったこともあり、そんなに上手くいかなかったような気もします。

小学校に入学する頃。当時児童数が1,000名を超える地元の学校にも特別支援学級がありましたが、アルビノに伴う弱視もありながら、工夫次第でなんとかなりそうだ…というような感覚からか、僕は通常学級に入ります。
幼稚園からの幼馴染も、2人の兄も通っている環境に恵まれ、プールの時間で大日焼けしたり、運動会でも大日焼けしたりしましたが、楽しく(健全にやんちゃに)過ごしました。
(アルビノは全身の色素が欠乏しているので、日焼けをするとほぼ火傷の症状になります。)

そんな僕らの時代に生まれたスーパーファミコン(1990年 発売)は大流行で、特に僕は『マリオカート』が大好きでした。文字を読むこともなく、コースは基本的に覚えてしまえば、誰とでも楽しく遊べるような気がしたのです。
だんだんと、友だちと遊ぶのも「スーファミやる?」というのが当たり前になってきて、家でも独りでゲームしたり、テレビやビデオを見て過ごすのに慣れていきました。
2人の兄たちは元気にサッカークラブで走り回っていましたし、実家は自営業の共働きだったので、独りで留守番をしている時間もかなり多かったと思うのですが、この頃にはすっかり「テレビがあれば大丈夫」な子供になりました。

先に地元を離れ全寮制の学校に進学した2人の兄たちとは別に、僕はそのまま地元の市立中学校に進学します。
小学校からの友だちと仲良くしながら、Windows98が世の中を大きく変えていく日本のインターネットの夜明け前。祖父が使っていたワープロ『書院』で小説を書いてみたり、学年有志でつくりあげた演劇の脚本を書いたり。
テレビでは『古畑任三郎』や『踊る大捜査線』が大ヒットしていて、ドラマや映画にのめり込み始めていました。
高校受験を迎える頃には、すっかり将来の夢が“脚本家”で、漫才コンビの爆笑問題も大好きだった僕は「とにかく日芸に行きたい」と強く願うようになり、日本大学の付属高校に入学を決めました。

私立高校に入学し、地元の友だちがいない世界。
自分がアルビノで、何をどうすれば良いのか、うまく説明できないどころか、そんなに理解も出来ていなかった15歳。生来の人見知りが大いに発揮され、クラスでは目立たない存在でした(アルビノなのに)。
今思えば良い意味で、男子校ならではの分け隔てない空間で。特別に大事にされることもなく、かといって陰湿ないじめを受けることもなく、友だちもさほど出来ず。
ただ、入学して早々に入部した放送部が、僕にとっては良い出会いになりました。
顧問の先生も先輩も同級生後輩も、本当に良い意味で“男だらけの空気感”に満ちていて。なかなかひと言ではまとめきれない、少し変わってて面白い青春時代を過ごしました。

高校の放送部で制作したラジオドラマがNHK杯全国高校放送コンテスト(通称「Nコン」)で少し結果を出せたことなどもあり、勉強はあまり出来なかった僕ではありますが、無事に付属校の推薦という特権を活かし、日本大学芸術学部 映画学科脚本コースに入学します。

もともと人見知りスキルを持ちながら、男子校でモノクロな高校生活3年間を過ごしてしまった僕は、なんとかコミュ障らしい自分を打開したくて、女の子とも仲良くなりたくて、ちゃんと恋愛もしたくて…、大学デビューを目論み、とにかく入学式からたくさんの人に話しかけてまわりました。
そこには「アルビノである自分は、この見た目だし、黙っていたら誰からも“話しかけづらい存在”だろう」という自己分析があり。
また、高校入学時に経験した“知り合いがいない新しい世界”という感覚を逆手に取って「これまでの人見知り爆発してる自分のことを知る人もいないんだ!一気にキャラ変だ!」と、勇気を振り絞ったのでした。

大学デビューは功を奏して。
演劇映画放送研究会という欲張りなサークルに入り、映画をつくり、演劇をつくり、ラジオドラマをつくり、友だちと飲みながらアツい話ばかり毎晩のようにして。上級生になればサークルの運営にも真剣に取り組み…。
早稲田の学生演劇をはじめたくさんの作品を観に行き、自分たちも面白いものをつくりたい!と情熱を持ち、ちゃんと恋愛もして…、自分で主宰して演劇公演をし、卒業制作の映画シナリオでは小さな賞もいただきましたし…、回想して書き出すと最高の大学生活です。
最高すぎて、5年間、本当に全力で楽しみ尽くして、大学を卒業しました。

新卒採用の就活では結果を出せず、将来の見通しは皆無でしたが。
声優として進んでいく覚悟の中澤さん、映画など映像役者を志す平居さん、という2人の先輩に声をかけ、自分たちのユニットProject One-Sizeを立ち上げました。

その頃は、まさかこんな人生になっていくなんて、思いもよりませんでしたね…。

アルビノ・エンタイーテイナーと名乗り表現活動をしています。
粕谷幸司です。

どうぞよろしくお願いいたします。

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