弱視は本を読むのがしんどい

弱視は読書がしんどい 日記
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5月に買った本が、まだ読み終わらない。

小学生のころ、友だちと学校の図書室に行くのにハマったことがあって。
そこで『ズッコケ三人組』シリーズをよく読んだり、自宅にあった母が買い集めていた『インディージョーンズ』の小説とか、テレビドラマのノベライズ本とかも読んだり。
意外と、本を読むのは好きだった。

視力はもちろん、アルビノで弱視の僕だから小さいころから今も変わらず弱かったけれど…、児童小説とかで多少は文字が大きかったりしたんだろうし、比較的ハードカバーのものが多かった記憶があるので、やっぱり文庫本サイズよりは少し大きめの文字だったんだろう。

あと、作品に関わらず「本が好きなんだね、偉いね」と、大人たちから褒められるのも気持ち良かった。

けれどいつからだろう…。
気付けば最近は「僕は本は読みませんね〜」と公言するようになった。

現代でも、根拠のない「本を読んでる人の方が偉い」ような風潮があると感じているので、特に必要がなければ年に1冊も読書をしない自分を恥ずかしく思ってしまうこともある。

けれど素直に、情報という意味ではテレビやインターネットから得ている自信があるし、物語というくくりでもテレビドラマやアニメなんかでわりとたくさん触れている自負がある。
だから…やっぱり「本を読まない自分が恥ずかしい」という感覚は、そんな「本を読む人の方が立派」というような世の中のいわれなき評価のせいに他ならない。

そんなわけで「別に本を読まなくたっていいじゃないか!」と開き直った上で、自分を見つめ直してみたら。
「弱視の自分を言い訳にしたくない」という心の拗れを振り切ってようやく…「だって本を読むって疲れるからね」と、納得することができた。

スポーツジムで体を動かしてる人は「良いですねぇ」とは思うけれど、別にジム通いしないで体を動かさないでも日々を健やかに過ごしているのならそれでも良いじゃない。
そしてそんな人に「ジムって疲れるじゃないですか」と言ったところでまともに会話が成立しないことも知れている。

それと同じかどうかは知らないけれど。

アルビノで弱視の僕は、恐らく普通の人と比べるととてつもなく、本を読むのに苦労する。
電子書籍ならフォントサイズを選べたりするのでまだしも、普通の本は、遠視用メガネ(凸レンズ)をかけたところでギリギリ見えにくい。
倍率の高いルーペを使えば、文字は見えるようになるけれど頭もしくは本とルーペを両手を使って上下左右に動かしながらの読書は、首や肩・腰がとてもつらい。

そんな大変な苦労をしてまで読みたい本は、なかなかない。

今、全然読み進められないのは、オードリー若林さんのエッセイ本なのだけれど。

内容が面白くて(沁みて)どんどん読み進めたい気持ちは、ある。
けれどあらためて…、1・2話分(10ページ弱)読んで「疲れた…」と感じている自分を認めた。

こんなに疲れるんだから、苦手だと実感して読書しなくなるのも、仕方ない。

繰り返しになるけれど、電子書籍版が出ているものなら、読みやすい文字の大きさを選べるので、タブレット端末でも読みたいなと思う前向きな気持ちはありはする。
でも、どのような採算があるのか詳しくは知らないが、僕が読みたいと思うような楽しそうな作品は、なかなか電子書籍版の用意が無かったりする。
あと…、結局のところ僕のコレクター感情もあるので「紙の本を手に入れたい・所持したい」という気持ちもあるジレンマ。

希望を言えば、世の中のすべての書籍が「紙の本と電子書籍の両方で」存在してくれれば良いのにと思う。
…とはいえ、そんなことよりテレビ画面・PCモニター・タブレット端末やスマホを見るのに充分な時間を既に費やしている僕だから、市場が整ったところで読書好きに戻る可能性は少ないけれど。


そういえば僕の学生時代にはまだ、現代のように教育現場にデジタルツールが導入されていなかった。
だから普通のみんなと同じ教科書を読むのにも苦労していたし(「拡大教科書」や拡大コピーは「みんなとちがうから」好まなかった)、ものすごく疲れるから自分が一生懸命がんばるつもりでも眼精疲労で授業中に寝落ちしたりしていたんだ。

現代の子たちは、僕より環境は良いはず。
文科省の「GIGAスクール構想」も助けになって、教科書や資料をタブレット端末内で見たりできるから、拡大するのも楽になっているだろう。

今度、埼玉の実家に帰ったら、小学生の姪っ子たちの教科書とか見せてもらうことにしよう。

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